※この記事はISAT研究所で継続的に更新している研究ノートです。
新しい知見や実践を反映し、内容を随時改訂しています。
初公開:2026/8/18
この記事は私自身のイメスト実例のご紹介です。
8月13日と8月18日に全く別々に行ったイメージストリーミングだったのですが
同じテーマだったせいか 奇しくも同じシンボルを見たのです
それは葦で編まれた籠に乗せられて川に流される赤ん坊のモーセです
<辻冬馬>
1. 8月13日 音声文字起こし|テーマはISATのマーケティング
8月13日 > これからの……マーケティング。はい。 > 川。 > 川べり。 > 昔見た、世界の英雄の本の中のモーセが流されるところだ。 > でもそれは、連想で思い出しただけで、連想で思い出させるために、この川を……川を、小さな川だけど、大きな植物・草が生えている。 > だからやっぱりモーセが流されるところか。 > 流される子どもたち。 > 親元から、愛情の世界から遠くに離される子どもたち。 > やがてそれを受け止める人たちの手がある。 > それを受け止める世界。それを受け止める世界と人々との愛情。 > そこで育まれた人は、オリジナルの場所で育まれるよりも、より普遍的に、より大衆化して、より揉まれる。 > 揉まれるといえば、小学校の入学式は雨で、私以外のすべての人は楽しそうだった。 > 私は家でテレビを見たかった。
2. 8月18日 音声文字起こし|テーマはISATのマーケティング
8月18日 > イメスト。 > 次のマーケティングはどうすればいいか。はい。 > ◎◎くんの顔が見えるな。 (知人のYouTuber)> そしてメトロン星人が…… > お釈迦様のいる森に向かって…… > いや、メトロン星人はいるけど、お釈迦様のいる森は別に存在するか。 > お釈迦様が歩いている静かな夜の林の脇の、川に、モーセが流れてくる。 > お釈迦様は無視して、流れに任せる。 > 諸行無常。 > (ここでお釈迦様がスルーするのならば)
どこまで流れていけばいいのだろうか。 > どこまで流れていけばいいのだろうか。 > 誰かが拾わなくてはいけない。 > 自力では何も起こらない、モーセの赤ん坊
1. 各イメージストリーミングの要約
◆ 8月13日「これからのマーケティング」
- イメージの展開:
- 川べりから、かつて読んだ本にあった「川に流されるモーセ」の場面を連想する。
- 小さな川と大きく茂る草。
- 親元や愛情の世界から遠くへ流され、切り離される子どもたちのイメージ。
- やがてそれを受け止める「他者の手」や「受け止める世界」の存在。
- 元の環境で育つよりも、外の世界に流され揉まれることで、人はより普遍的・客観的になっていく。
- 個人的な記憶への接続:
- 「揉まれる」という言葉から、小学校の雨の入学式を想起。
小学校生活から社会生活が始まったのだ
- 周りの人々は楽しそうだったが、自分だけは馴染めず「家でテレビを見ていたかった」という孤独感や違和感の記憶。
◆ 8月18日「次のマーケティングはどうすればいいか」
- イメージの展開:
- ◎◎君の顔、メトロン星人の出現。
- お釈迦様が歩く静かな夜の林の脇を流れる川に、赤ん坊のモーセが流れてくる。
- お釈迦様はそのモーセを拾い上げず、流れに任せて見送る(諸行無常)。
- 核心の問い・気づき:
- 「どこまで流れていけばいいのだろうか」
- 「誰かが拾わなくてはいけない」
- 「自力では何も起こらない、モーセの赤ん坊」 という無力さと他者依存・運命への委ね。
2. 比較と所見
① 共通する中心メタファー:「川を流れるモーセの赤ん坊」
どちらのセッションも「マーケティングの今後」という能動的・戦略的なテーマを問いかけているにもかかわらず、無意識下から湧き上がってきたのは「籠に入れられて川を流される赤ん坊(モーセ)」という強烈に受動的な元型(アーキタイプ)でした。
- 無力さと受動性:
カゴの中の赤ん坊は自力でオールを漕ぐことも、進路を決めることもできません。8/18の言葉通り「自力では何も起こらない」状態です。 - 「見出されること」「拾われること」の必要性:
流されたモーセがエジプトの王女に拾われて運命が拓けたように、自分の活動や発信が価値を持つには「川下で受け止めてくれる他者の手(市場・顧客・他者)」が不可欠であるという認識が通底しています。
② 2つのイメージにおける視点とアプローチの変化
| 観点 | 8月13日のイメージ | 8月18日のイメージ |
| トーン | 社会化・成長・客観化への肯定的なプロセス | 孤独・漂流・無常観と本質的な問い |
| 他者の存在 | 「やがて受け止めてくれる人の手がある」と信頼がある | お釈迦様は見て見ぬふり(諸行無常)をし、流され続ける |
| 心理的焦点 | 親元(安全圏)を出て揉まれることの必然性 | 誰かに拾われなければ始まらないという「他力」への自覚 |
8/13の着地:
「安心できる原点から切り離され、外の世界で揉まれることで普遍的な存在になる」という、流されることの意義や成長にフォーカスが当たっています。- 8/18の着地:
寝ぼけた状態(より無意識に近い状態)であったためか、観念的な防衛が外れ、「ただ流れていく不安」と「お釈迦様(自然の摂理)は助けてくれない」という冷厳な事実、そして「誰かに拾われなければ成立しない」というマーケティングの本質的な他者性がむき出しになっています。
③ マーケティングへの示唆
無意識が提示しているメッセージは明確です。
- 自力でコントロールしようとしすぎない(漂流の受容)
自力で泳ごうとするのではなく、「モーセの籠」のように自分の核(コンセプトや活動)をパッケージ化して流れに乗せること。 - 「拾う側の文脈」に委ねる
川を流れる籠を拾うのは、川岸にいる他者です。マーケティングとは「押し売り」ではなく、「見つけて拾い上げてもらうための目印・存在感をどう川に浮かべるか」という視点への転換を促しています。

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